手放すかガッチリ矯正していくか

こんばんは。歯の治療などで右の犬歯と奥歯、左の上下奥歯がない管理人です。ふがふが。

 

久しぶりに達人まとめを読んだりしているのですが、いまひっかかっているのが手放すか、矯正するか。

 

手放すは文字通りコントロールしないでただ流れに身を任せるってことで、いろんな人がいろんな形で語られていますね。かたや自分の思いを潜在意識にすり込んで具現化させるみたいな話も多くの方が語っていらっしゃいますが、前者と後者が全く逆のアプローチに思えて混乱しております。

 

ただこうやって書いているとロジカルの沼にただハマっているようにも思えてきて、前者も後者も実は一緒のような気もするなぁ。

 

あと自愛。何かと自分をダメ評価してしまうのでそのままでいい認定をしたいと思っています。あ、でもそのままでいいとすると願望がかなっていてもいなくても今のままでいいということか。でも願望は常にかなっているような気もするし。するってえとやはり少し意識をスライドさせるだけであとは何もしないのがいいのかも?

 

 

世界=自分について

これまでの私の認識(というか考え)では

『自分という概念自体が幻想でまぼろし』=『自分とその他の区別はない(できない)』=『世界=自分』のような感じだったんですが、この記事を読んで少し思うところがありました。

 

anotherworld000.blog22.fc2.com

 

要は「自分」とはそれこそ自分で線を引いて定義するものではなく、外部の事象(もしくはそれによって引き起こされる反応)によって勝手に定義されるものではないかと。

図にするとこんな感じ。

 

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「自分」がどう決められているのか

左の図は文字通りある領域を線で囲い、それを自分として定義しています。これが普通に我々が思っている自分です。自分の手、自分の足、自分の髪の毛、自分の家、自分の子供、自分の仕事…と何かにつけて自分というレッテルを貼り、それらを総称して自作自演で「自分」を作り上げています。

 

対して右の図ですが周りの黒い矩形(事象とその反応)が勝手に起こることで、中央のエリア(自分)が受動的に決められます。自分が外部の要因から定義され・作られる形です。今見ている手が動かせる→私の手 うんこを踏んだ⇨汚いし悲しい 恋人できた→嬉しい 転んだ→痛い 等々。

 

普段私たちは次々と起こる事象や未来のこと/過去のことで一喜一憂していますが、もしそれがただの反応で勝手に湧き出ているだけだとすると、結果として形作られる自分もただの反応の結果ではないかと思いました。そしてそう考えると私自身に必要以上に責任を持つ必要もなく、目の前で起こることや引き起こされる感情を淡々と眺めているだけでよく、気持ちが随分と楽になりました。

 

この反応(や感情)が一体どこから湧いてくるのかがとても気になりますが、少なくとも自分は感情や反応それ自体ではなく、それを無言で眺めている何かが本体なんだろうなと思っています。